大阪北部地震から2年

二年前の今日、最大震度6弱地震が大阪北部を襲ったとき、僕はちょうど阪急電車に乗っていた。
大阪に引っ越してきて初めての梅雨を迎えるときだった。

電車は南茨木駅を出発し、加速を始めてすぐに急減速し停車。電線が揺れているのをみてすぐに地震と気がつき、あとから体感でそこそこの揺れを感じた。
車内アナウンスが地震の発生を告げ、これはしばらく動かないだろうと思った。家にいる妻に連絡をとり、少し経ってから身体と家は無事であること、猫が驚いてソファの下から出てこなくなったとのことで、すこし安堵した。

それからまもなくTwitterで大阪北部が震源との情報を得る。
車窓からの景色はさほど変化がなかったが、震度6クラスの強さであること、隣駅のホーム電光掲示板が落ちている写真を見てこれはしばらく缶詰状態だなと覚悟した。断水に備えて、お風呂に水を貯めるよう伝えた。

たしか9時頃に電車が後退して、南茨木駅で降車させられた。
止まっているエスカレーターをのぼり、駅構内のあちこちに目をやると壁にヒビが入っていたりタイルが落ちていた。
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この日からしばらく南茨木駅は利用できなくなった。


駅を出ると同じように電車を降りた乗客、これから乗る予定であった人々が静かとも騒がしいともいえない空気の中、スマホの画面に顔を落としたり、電話をかけようと試みていた。

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外でこういったアクシデントに見舞われると、普段以上に他人の顔や表情が目に入らなくなるものだなあと思った。

地震発生直後に会社へ仕事を休む旨を伝えていたので、徒歩で家路についた。
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ほとんど人に出会わず、ただただ不気味な静けさの中を歩いて帰ったことを覚えている。

救急車やパトカーのサイレンも聞こえてこなかった。

踏切ではカンカン音が延々と鳴り響き、来るはずもない電車を待って遮断器が道を閉ざしていた。

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